京大病院小児科に「楽しい時間」をプレゼントしていらっしゃるボランティアグループ
にこにこトマトさんのニュースレターに04年10月からへなちょこなコラムを書かせていただいています。コラムのタイトルは「もう一人の主役」。代表の神田さんがつけてくださいました(わーい)。
先日、病気で亡くなる子どものことをテーマにしたシンポジウムに参加しました。「今回のテーマはとても重いのですが…」とたくさんの方が説明されているのを聞きながら、弟を見送った立場として、ちょっと心に痛みを感じました。それが気遣いであることももちろんわかっていますが、天国の弟の話はそんなにも重苦しいことで、口にするのが憚られるようなことなのだろうかというふうに感じてしまって…。自分の中では弟は今私が歩いている道と地続きのところにいるようなイメージで(天国にいるとしたら「地」続きではないのですけど、気持ち的に…)、そこが切り離されているように感じると寂しい気持ちになるのです。そして、きょうだいのしんどさについて話をした時の反応でも同じ傷つきを感じることがあるのを思い出していました。
ちいさなきょうだいさんたちは、突然始まった先の見えない闘病生活の中で、不安になったり、罪悪感をもったり、怒りを感じたり、寂しかったり、我慢したりしながら頑張っています。そんなきょうだいたちに支えが必要だという話になると、うーーんと困った顔で「きょうだいの問題って難しいですよねえ…」「きょうだいにも目を向けてあげないといけないのはわかってるんですけど…」という流れになることがあります。
こんな時、私の中の「ちいさなきょうだいのわたし」は少し傷つきます。「うーーん」の中の優しさや罪悪感、それだけきょうだいの気持ちに寄り添って考えてくださっている愛情もよくわかっていて、とてもありがたく感激するのですが、同時に心のすみっこに生まれる、自分のことを難しい子どもだと言われたような悲しい気持ち、自分の存在が迷惑になっているような申し訳ない気持ち、他の子ども達とは違うと言われているような寂しい気持ち…。
もし子どものきょうだいさんたちがこんなふうに少しでも感じたら、きっと「わたしはひとりでもだいじょうぶだよ!」って言ってしまう気がして、そうならないように伝えていきたいと思うようになりました。きょうだいたさんたちは支えてあげないといけないだけの存在ではなく、その頑張りや優しさ、強さに私たちはたくさんのことを教わってきました。一緒にあそんで「これ楽しいね!」と思う時の心のあたたかさ、いっぱい走ったあとの真っ赤なほっぺやキラキラの瞳の可愛さ…子どもたちのもつ大きな力に、いつも胸がいっぱいになります。
きょうだいさんも、病気のお子さんも、親御さんも、天国の子どもたちも、誰かに支えられ、誰かの支えになり、みんな地続きの同じ道をともに歩いている…そんなふうにたくさんの人と一緒に歩いていけると嬉しいな、と思います。