もう1人の主役(20)

京大病院小児科に「楽しい時間」をプレゼントしていらっしゃるボランティアグループ
にこにこトマトさんのニュースレターに04年10月からへなちょこなコラムを書かせていただいています。
コラムのタイトルは「もう一人の主役」。神田さんがつけてくださいました(わーい)。

弟と私(9)
 高校生になり、私はもがいていました。友達との温度差を感じていたし、唯一の拠り所だった成績も落ちていたし、弟がまた倒れたらどうしようという不安は1日中消えることがなく、不安や悲しみ、怒り、焦り、妬み…私の心の中ではさまざまな感情がぐるぐると入れ替わり、いっぱいいっぱいでした。もっと大変なひとが世の中にはいるとわかっているのに、弟や両親は私よりもずっとつらい思いをしているのに、それがわかっているのに健康な自分の足もとがぐらぐらしてしまっていることが何より腹立たしく、苦しいことでした。弟の病気も治せなくて、良い成績をとって両親を喜ばせることもできなくて、「自分がここにいる意味ってあるのかな…」と思っては、「大人になったら弟と暮らすことで役に立てる日がくるかもしれないから」と、弱気な自分を打ち消す毎日でした。
 中学生の頃は、学校の先生方が私のことを大変可愛がってくれていました。父が同じ市で中学校の教員をしていたので最初から名前も覚えてもらっていたし、私は絵にかいたような真面目な優等生で、両親にうまく甘えられない分を、先生方にずいぶん埋めてもらっていました。テストで満点取れていると一足先にこっそり教えてくれたり、頭をなでてほめてくれたり、放課後ピアノを教えてくれたり…弟の病気のことを知っている先生ばかりだったので、時々ちょっぴり特別に可愛がってくださったように思います。先生のとなりで過ごすひとときは私にとって一番心が休まる時間でした。
 一方、高校は進学校で、周りは自分より優秀な同級生ばかり、先生は優秀な子に合わせて授業を進めていました。名前を呼ばれることもなく、勉強はちんぷんかんぷんで、教室にいてもいなくても変わらない日々。弟の大きな発作のショックも残っていて、先生にも、友達にも、家族にも心をうまく開けなくなった私は少しずつ心のバランスを崩していきました。
 最初は、自分自身の理想に届かない自分をどうしても許せなくなりました。だんだんと、真面目だった自分を壊してしまいたいと思うようになり、衝動的に髪を脱色しました。大切に守ってきたものをひとつ壊したことで私は少しすっきりしていました。高校デビューなんて恥ずかしいなあとは思ったけれど、自分を否定することでしか維持することができなくなっていた私にとって、見た目を変えることには意味がありました(結局弟がびっくりしてしまったのですぐに暗い色に染め直すことになったのですが)。多分、自分が悪だと思って避けていたものなら、何でもよかったのです。たとえば煙草でもお酒でも。でも、将来弟を守っていくために、弟よりも1日でも長く生きるために、体に影響の出るものに手を出すことはできませんでした。
 ある日、社会科の先生が廊下で私を呼びとめました。ユニークで人気者の先生が自分の名前を知っていることに驚き、思わず立ち止まりました。「清田はさ、このままだと居場所がどんどんなくなってしまうね。野球部のマネージャーをするといい。」先生は、占い師のようなことだけ言うと、去っていきました。