京大病院小児科に「楽しい時間」をプレゼントしていらっしゃるボランティアグループ
にこにこトマトさんのニュースレターに04年10月からへなちょこなコラムを書かせていただいています。
コラムのタイトルは「もう一人の主役」。神田さんがつけてくださいました(わーい)。
母の手
幼い頃の自分を思い出すとき、いつも隣には母がいます。母のあたたかい手、優しい声、表情、すべてが大好きです。私は自他共に認める「お母さん子」で、母とはずっと仲良しです。でも、弟が心臓病と判明した年から弟が亡くなった年までの8年間を思い出すとき、私は母の表情を思い浮かべることができません。
我が家の闘病の方針は「弟は家族で守る」でした。中学生の私も中学生なりに大好きな弟のことを心配していましたし、両親はきょうだいという立場の私をとても気遣ってくれていたので、その分両親の負担が少しでも軽くなるようにと精一杯頑張っていました。「手のかからない子」であることを一番良いことと思い、父や母が「お姉ちゃんは一人でも安心だから」と近所の人に話すのを聞くのが何よりも嬉しいことでした。
ある日の夜中、私は熱を出しました。弟の病気は睡眠不足や生活リズムの乱れも悪化につながるのだと聞かされていた私は、弟と同じ部屋で眠る母に熱があることを告げることができず、弟を起こしたくない一心で、部屋で一人じっと我慢していました。熱は40度近くまで上がり、喉と関節の痛みに耐えながら「あと4時間」「あと3時間」と耐え続けていたのですが、残り2時間というところでどうにも耐えられなくなり、母に薬をもらいに行きました。身体がつらいことも、一人で心細かったこともありましたが、何より朝まで我慢できなかった自分が許せなくて、悲しくて、ポロポロと涙がこぼれました。謝る私に母は優しかったけれど、母の心配や優しさは、悲しみでいっぱいだった私の心には届きませんでした。
母にもっと甘えたかった自分を認められるようになった今ならわかることがあります。あの時母もきっと悲しかったこと。母も私に甘えてほしかったこと。あの精一杯の日々の中で、私は「母に愛されたい」という当たり前な自分の感情を認めてあげることができませんでした。愛されたい気持ちをむりやり無視していたので、確かにたくさんもらっていた母親からの愛情を素直に認めることもできませんでした。
「母に甘えたかった自分」というものを認めるきっかけになった出来事は、とても些細なことでした。弟が亡くなって半年ほど経った寒い日、外から帰ってきた私が膝が冷えて痛くなったことを話すと、母が膝をさすって温めてくれたのです。母が沸かしてくれたお風呂に入りながら、母の温かかった手を思い出して涙が止まらなくなりました。その頃私はもう立派な大人と言われる年齢でしたが、母にさとられないよう声を押し殺してしばらく泣いて、泣きながらずっとこうして母に触れてほしかった自分の気持ちに気づきました。
幼いきょうだいを心配だけど、病気の子どものことで精一杯できょうだいと遊んであげる時間がないと悩んでおられる親御さんはたくさんいらっしゃいます。どうすればよいのか、私にはスパっと答えを出すことはできませんが、無理して特別なことをしなくても、1分、1秒、抱きしめることで埋まる寂しさもあると思います。そしてそれはいつでもよいのだと思います(たとえば入院生活は終わっていても)。甘えたいと思ってもよいこと、時々怒っても悲しくてもよいこと、どうぞ何度でも伝えてあげてください。幼いきょうだいたちが大好きなママの顔を見られないほど頑張ってしまわないように。まわりの人の愛情に気づけないほど心に鍵をかけてしまわないように。