もう一人の主役(39)

京大病院小児科に「楽しい時間」をプレゼントしていらっしゃるボランティアグループ
にこにこトマトさんのニュースレターに04年10月からへなちょこなコラムを書かせていただいています。コラムのタイトルは「もう一人の主役」。代表の神田さんがつけてくださいました(わーい)。

弟と私(20)
弟の側にいられるよう、1年浪人して家から通える大学を受け直すことになりました。家族から応援されることもなく、家族以外の人からは受け直しの選択に反対され、ひとりで頑張るしかないのだと決めた1年間、とにかくこの1回しかチャンスがないことに必死でした。
予備校の自習室にこもって勉強して帰りが遅くなると、同じ駅が最寄りの友人には、ご両親が犬の散歩がてら駅までお迎えに来ているのに、私は居づらい家に、こそっと帰る、そういう違いを感じる1年でした。母と弟は弟の体調を整えるために早めに就寝するようにしていたので、私が母や弟と話をする時間はなくなっていきました。母は母で、自分が娘の進学の邪魔をしたという罪悪感がきっとあって、私のすること、決めることにはまったく口出ししなくなっていました。ここが自分の家なんだという気持ちがだんだん薄れていきました。下宿させてもらっているような…。
希望していた大学には無事に合格できました。福祉の勉強をする、福祉の仕事をする、同じ道を志す仲間にたくさん会える、弟の病気のこともきっと自然に話せて、みんなわかってくれて、差別するような人ももういないんだと、私の中の期待が膨らんでいました。
大学の入学式で友達になった同じ学部の子と自分のきょうだいの話になり、さっそく弟の話をしました。弟が倒れて救急車で運ばれるのを見送った時すごく怖かったから、今でも救急車の音を聞くと胸がドキドキしてしまって…と話す私の話を友人は遮り、「そうなんや。私にはまったくわからん感覚やね。それでさあ、」と、話を終わらせました。「あれ、期待していた感じと違う…」と思ったものの、わからないと答えることは誠意かもしれないと、違和感を飲みこみました。
それから数週間後、友人に誘われて学園祭委員に入り、作業をしている時に、近くで別の作業をしていた男の子に「どうして福祉学部を選んだん?」と聞かれた時も、私は何も迷わず、弟が心臓病で、こういう経験をしたから、病院のワーカーさんになりたいんだと話しました。彼は神妙に話を聞いて「そうか、頑張りや!」と励ましてくれて、私はホッとしました。  
1人の作業に戻ると、福祉学部の先輩が来て「私の弟も障害があるし、福祉学部に来てる人にはそんな人たくさんおるんやで」と話してくれました。「あっ、先輩も同じなんだ。病気の子のきょうだいの人にも会えるのかな?」と嬉しくなった私に、続けて「だから自分だけが特別と思わない方がいい」と先輩は言いました。先輩の中にもいろんな気持ちがあったこと、私を心配しての忠告だったこと、今はよくわかります。しかし当時の私は、志望動機を聞かれて答えただけなのに、人の気を引くために弟を利用したと思われた、ということが恐れとして心に刻み込まれ、期待はぺしゃんこになりました。まだまだ青く、自分の中のきょうだいとしてのしんどさにも気づいていなかった私は、何もわかっていませんでした。