もう1人の主役(21)

京大病院小児科に「楽しい時間」をプレゼントしていらっしゃるボランティアグループ
にこにこトマトさんのニュースレターに04年10月からへなちょこなコラムを書かせていただいています。
コラムのタイトルは「もう一人の主役」。神田さんがつけてくださいました(わーい)。

弟と私(10)
 「清田はさ、このままだと居場所がどんどんなくなってしまうね。野球部のマネージャーをするといい。」と、廊下で占い師のようなことを言った先生は軟式野球部の顧問をしていました。授業のたびに勧誘してくれることが段々おもしろくなり、私はマネージャーをやってみることにしました。
 弟には、いつ発作が起きても対処できるようにと、いつも誰かがつくようになっていました。朝は友達と先生が弟を家まで迎えに来てくれて、弟の学校が終わるころ母が迎えに行き家まで一緒に帰ってくる、という生活パターンで、家に帰ると弟の友達が毎日たくさん遊びにきて夕方まで家で過ごしていました。携帯電話どころかまだポケベルもない時代だったので、母はいつ学校から緊急連絡が来てもよいようにと、弟が学校にいる間も家を空けないようにしていました。私と弟が2人きりになる時間もできるだけつくらないようにしてくれていました。父は仕事熱心な人であまり家にいなかったので、母は1人でよく頑張っていたと思います。時々煮詰まっているような感じがして少し心配でした。今ならもっと手伝ってあげることも思いつけるのですが、当時の私はまだ子どもでした。
 野球部のマネージャーは楽しい仕事でした。先輩マネージャーさんに仕事を教わったり、部員さんと話したり、何より人の役に立っているというわかりやすい実感が私の心を癒していきました。どちらが1塁で3塁なのかもわからない状態からのスタートだったので(びっくりですね)覚えることもたくさんで、急に広がった世界に、私は毎日とてもわくわくしていました。「人の世話をするだけの部活なんて…」と、最初は渋っていた両親でしたが、毎日暗い顔をして学校に通っていた私があまりに楽しそうにしているので、続けることを認めてくれました。
 部活に出るようになり、私が家にいる時間はぐっと少なくなりました。日曜日には他の学校との練習試合があり、相手の高校が遠い時には早起きして向かわなければいけませんでした。いったんは認めてくれた両親の表情がだんだんと曇るようになってきました。何度目かの練習試合から帰ってきた私に母は言いました。「あなたが早く起きると弟も目が覚めてしまう。それが弟の命に関わることだというのはわかってるよね?弟はどこにも遊びに出られないのだから、試合に遅れて行くとか、部活に出る日を減らしたりとかできないかな?」――試合に遅刻したらスコアが途中からになってしまうし、入ったばかりの1年生が自分の都合で部活に出たり出なかったりするというのは想像し難いことでした。母は続けて言いました。「淳が死なないようにすることより大事なことってある?部活なんてそんなに大事なことじゃないでしょう?」
 弟が死ぬことよりも大きなことはない。弟が死ぬことを思えば部活を辞めることなんて全然大したことではない。それはどうしようもなくそのとおりでした。私は部活を辞めることにしました。