もう1人の主役(12)

京大病院小児科に「楽しい時間」をプレゼントしていらっしゃるボランティアグループ
にこにこトマトさんのニュースレターに04年10月からへなちょこなコラムを書かせていただいています。
コラムのタイトルは「もう一人の主役」。神田さんがつけてくださいました(わーい)。

弟と私(5)
医療ソーシャルワーカーになりたいと決める前は、多くの「きょうだい」が思うように、弟の病気を治せるお医者さんになりたいと思っていました。当時の学校の成績は学年で1番(もう2度とできないことなので自慢します!)。部活にも出ず、学校からまっすぐ帰ってテレビも見ず深夜までひたすら勉強。日曜もどこにも出かけずひたすら勉強。これだけ勉強していればそりゃ1番にもなるだろうというぐらい参考書と問題集が友達でした(自慢できません…)。
どんな気持ちで「お医者さんになりたい」と言ったのか…今思うとよくわかりません。恥ずかしい話ですが、そう言えば両親や弟が喜ぶと思って言ったのかもしれないし、ただ自分で自分の考える「良い子」でありたかっただけかもしれません。もちろん純粋に弟に元気になってほしいという気持ちもあったのでしょうけれど、私のお医者さんになる宣言を聞いた時、母と弟の顔は曇ったように記憶しています。役割を期待されることもつらいのだろうけれど、期待されない(反対される)こともつらいなあと中学生の私は思いました。
私の両親は「褒めない主義」で私を育てました。確かに、満点を取っても、1番を取っても、褒められた記憶がありません。「上には上がいるから満足してはだめ。勉強は褒められるためにするのではなく自分のためにするもの。」という両親の教育方針を私は尊敬していたので、満足しているつもりでした。でも中学生といってもまだまだ子どもだった私は、本当は褒められたかったのでしょう。褒められたい気持ちをなくすことはできず、「もっと良い点を取れば…もっとたくさん満点を取れば…」と、だんだんテストで良い点を取ることだけが自分の存在価値のように思うようになっていきました。ただ褒められたかった。認められたかったのです。
中学3年生になると周りの友人が塾に通い始めました。私は不安になり、自分も塾に行きたいと両親に頼みました。父が祖父に相談すると「女の子がお金かけて勉強なんかする必要はない。学歴は邪魔になるだけだ。」という答えでした。ショックでした。ショックだったのは医者になれないということではありませんでした。自分の存在価値がなくなってしまうこと…それがショックでした。「医者になんてならなくていい。あなたが健康に生まれたのは弟を守っていくためなんだから、弟の側にいればそれでいい。」祖母は言いました。「そんなことはわかってるよ、だったら私は何を頑張ればいい?」当時の私の日記にはこう書いてありました。父も祖父の主張に従いました。今思えば、勉強だけを心の支えにしているような私を止めなくてはと思ってくれたのかもしれませんが、私は打ちのめされた気持ちでした。
周りが受験勉強に本腰を入れ始めると、私は1番ではいられなくなりました。当時の私に、やっとみつけた存在価値を手放すことはもうできませんでした。誰も頼れないと思った私は友人から情報を集め、格安で行ける塾をみつけてきて母に頼み込み、通いました。
―――それから数年後の話です。私が高校生、弟が中学生になった頃、夜中にトイレに起きた私は台所で何か作業をする父を見かけました。父は弟のために英単語帳を作っていました。普通なら笑ってしまうような微笑ましい光景でした。でも私は「私が死ぬ思いで勉強している時は何もしてくれなかったのに…!」という気持ちが沸き起こり、自分で自分の感情に驚きました。
父も母もよく言っていました。「悠代は五体満足だし何でもできるから天狗にならないよう褒めないで育てたんだよ。淳は病気だし不器用だったから、周りが助けてあげないと、褒めてあげないと、生きていけなかったでしょう?」言いたいことはとてもわかるけど…私も頑張ってるのに…褒められたいのに…というやり場のない不公平感は長い間私を苦しめました。