京大病院小児科に「楽しい時間」をプレゼントしていらっしゃるボランティアグループ
にこにこトマトさんのニュースレターに04年10月からへなちょこなコラムを書かせていただいています。コラムのタイトルは「もう一人の主役」。前代表の神田さんがつけてくださいました(嬉しい)。
温度差を少なく
先日、「小さないのち」の坂下さんにお声掛けいただいて、弟を亡くした遺族として経験してきたことや感じてきたことを医療従事者の方々向けの講座でお話させていただきました。
弟が亡くなってもうじき20年、遺族として話をするのは初めてのことで、久々に当時の自分の気持ちとじっくり向き合うありがたい機会をいただきました。
ひとつひとつ振り返ってみて、たとえば弟の病気がわかった時、たとえば検査の結果が良くなかった時、そして弟が亡くなる時、いつでもきょうだいの私は情報や見通しを得ることが難しかったということを改めて意識しました。
両親がわが子に起こっていることを知り、落ち込み、受け止め、咀嚼し、ある程度納得した頃にやっと何が起こっているのかを知らされる私は、その時の両親の気持ちの落ち込み具合を言葉や表情の端々から探り、自分が今どんな態度をとるべきか考えて、両親の気持ちの居るところまで慌てて追いつく努力をしていました。それがうまくできなければ「なんにもわかってない」「家族なのに冷たい」と両親や弟にがっかりされ、家族の一員である資格が揺らぐ気がして、特に母親の気持ちの温度にできるだけ近づけるように無意識のうちに頑張っていたように思います。
兄弟姉妹を亡くす経験をしたきょうだいで、「周りの大人が泣いていたからとりあえず泣いた」「悲しいふりをした」と教えてくれる方に時々出会います。子どもなりに周りの大人の気持ちの温度に追いつく努力をしている子がたくさんいると感じています。
今回の講座でお話させていただく項目に「医療従事者にしてもらって嬉しかったこと」というテーマがあり、最初ちょっと困ってしまいました。なぜなら、弟の闘病期間中に私が言葉を交わした医療従事者の方は1人もいなかったからです。でも今は、きょうだい支援の活動をしていて、医療従事者の方々がきょうだいたちのことをとても心配し、どうすればよいだろうといっぱい悩んでくださっていることがよくわかります。子どもが亡くなる時、できるだけきょうだいも同席させようとされている病院も増えました。なかには「病気の子に病気の説明をする時にきょうだいにも一緒に聞く?って声をかけてみるのはどうかなあ」と話してくださるドクターまでおられます。希望するきょうだいがそこに入ることができれば同じ温度でスタートすることができて、後で必死で追いつく努力をせずに済むかもしれません。家族の人生の重要な場面に同席することで、自分も家族の一員として大切にされているんだと感じる子もいるかもしれません。
「子どもだからわからない」「子どもにわざわざ心配かけなくても…」と思われることの多いきょうだいですが、死別に限らず、きょうだいはまず周りの大人のグリーフ(悲嘆)に巻き込まれています。その時にきょうだいがひとりで頑張らなくてよいように、フォローできる大人が増えていくといいなと願っています。