京大病院小児科に「楽しい時間」をプレゼントしていらっしゃるボランティアグループ
にこにこトマトさんのニュースレターに04年10月からへなちょこなコラムを書かせていただいています。
コラムのタイトルは「もう一人の主役」。神田さんがつけてくださいました(わーい)。
弟と私(1)
今日は最愛の弟の話を書こうと思います。4歳下の弟が初めて倒れたのは弟が小学3年生、私が中学1年生の1月のことでした。弟と公園であそんでいた友達が「淳くんが公園で寝てしまった!」と家に駆け込んできたことを覚えています。この時は病院に行っても原因がわからず、「風邪か疲れかなあ」という診断でした。それまで本当に元気でスイミングにも通っていた弟だったので、何かおかしいなあと思いつつも、すぐにいつもの生活に戻りました。次に倒れたのは4ヵ月後の5月。学校で追いかけっこをしている最中に倒れ、病院での検査の結果、てんかんだろうということになり専門病院を紹介されました。しばらく通院していましたが、駅の階段をのぼりながら弟が息切れしていることに母が気づき、心臓の検査の結果「心室中隔欠損」の診断を受けて国立循環器病センターを紹介され、そこで「肥大型心筋症」であることがわかりました。弟が小学4年生、私が中学2年生の7月でした。
弟が眠った後、両親は私を呼んで絵を描きながら弟の病気を丁寧に説明してくれました。「分厚い風船に空気を入れるには力が必要だよね、弟の心臓の壁は人より分厚いので、心臓が動いて血を送り出すのに大きな負担がかかる、だから急にドキドキすると血を送りきれなくて止まってしまうんだよ」という説明だったと思います。「もっと詳しいことはこれを読んだらわかるから」と本も渡されました。私からの質問はひとつだけ「淳は死んでしまうの?」ということで、「それはわからないけどそうならないよう家族で守っていこう」という答えでした。弟の見た目はどこも変わらなかったし、薬を飲むようになったのと運動制限がある以外はこれまでと同じ生活をできたので、その時は弟が死ぬかもしれないという実感は(家族みんながそう考えないように強く思っていたせいもありますが)ほとんどありませんでした。両親の心配りのおかげで私自身も、学校の三者面談に母が来られないくらいのことしか生活の変化はなく、のほほんと暮らしていました。
1ヵ月後の8月末に2週間ほど検査入院がありました。両親は毎日病院に面会に通いました。私は一緒に行っても病棟に入ることができないのでほとんど留守番して夜ご飯を作って待っていたと思うのですが、その頃の記憶がどうしても思い出せず、取材などで尋ねられるといつも「ううーん」と困ってしまいます。覚えているのはカテーテル検査の日に両親について行って初めて見た小児病棟の光景。手に針がささっている子ども(点滴をしていただけなのですが)やベッドで搬送される子どもの姿を見て、これまで見たことのない世界にショックをうけました。検査から帰ってきた弟は真っ青な顔をして寝かされていて、状態が思わしくなく、夜遅くまで両親はつきっきりで、私は薄暗い病棟のロビーで夏休みの宿題をして待っていました。帰りの地下鉄でひとつ座席が空き、父にうながされてそこに座った母がぽろぽろと涙をこぼすのを見たとき、「私が思っているよりも大変なことが起きている」ということにやっと気がつきました。